憲法14条において、「すべて国民は、法の下に平等であって(以下、略)」と書かれていますが、現実には社会的に「強者」と「弱者」がいることは、誰もが承知の事でしょう。
それは、身体的な強者・弱者であったり、恋愛市場における強者・弱者であったり、経済的な強者・弱者であったり、様々です。
そして、弱者に対して「そうなったのは自己責任でしょ」という言説も良く聞かれます。
直近の政府方針でもそのような考えが強いように感じます。
「自助・共助・公助」ということで、「自分でなんとかしろ」が最優先と考えているようです。
<参考過去記事>
しかし、「社会的弱者は社会で支援する方が望ましい」。
私は、そのように考えています。
それは、「困っている人を助けてあげたいから」という感情的な理由を抜きに、「強者にとっても弱者を救う方がメリットがある」という合理的な理由があるからです。
今回はあえて、感情面ではなく、合理的な理由から、社会的弱者を救うべき理由を2つ示してみます。
*念のために書きますが、今回の話は「(弱者の私が)社会のルールを作っている強者の方々へ伝えたいメッセージ」です。「強者の私が、弱者の人たちを救う」という偉そうな立場ではありませんし、ましてや「強者として、弱者を見下している・茶化している」という誤解のないようにお願いします。私自身は、ポスト団塊ジュニアとして過当な競争倍率の受験戦争を強いられ、就職氷河期の影響もまだまだ残り、恋愛市場では全くモテず、今後は年金&医療保険&介護保険が改悪されることが間違いない中で、必死にもがいている弱者側の人間です。
1.安全コストを払うことになるから
社会的弱者は、その困窮の度合いが一定ラインを超えると、暴走します。
直近でそれを最も象徴したのが、2022年7月の元首相安倍晋三氏の銃撃でしょう。
自分の家族、資産が奪われ、社会的・精神的・経済的に困窮した人が、暴走した事件といえます。
山上氏が、温かい家族に囲まれ、親族から受け継いだ資産で経済的に困る事なく暮らしていれば、このような事件は起きなかったことでしょう。
他にも、2008年に秋葉原で2トントラックで人通りに突っ込み、17人をナイフで刺した秋葉原通り魔事件なども、社会的孤立と経済的困窮が原因と言われています。
このような顕著な例を除いても、経済に困窮した人が、強盗・盗難といった犯罪を起こしたり、恋愛市場に敗れた人が性犯罪を犯したり、といったことは、少なからず相関するところはあるでしょう。
社会的弱者は、困窮の度合いや精神状態が一定ラインを超えると、いわゆる「無敵の人」となり、通常のリスク管理では対応できない事件を起こすことがままあります。
<参考過去記事>
社会的強者が、そのような暴漢に襲われない為には、より厳重なセキュリティーシステムを構築したり、個別で警備会社と契約をしたり、スタンガンなどの防犯グッズを持ち歩いたり、ボディーガードを雇わなければなりません。
弱者を救わないと、強者も安全の為に余計なコストを払う事になるのです。
安全のために余計なコストを払うくらいなら、弱者を救う為にコストを払うのも悪くないのではないでしょうか。
2.いつ自分が弱者側になるかは分からないから
強者が強者でいる間は、「自分が弱者側での生活を強いられる」という想像はしづらいですね。
しかし、人生はふとしたきっかけで、想像もしていなかった事が起こるものです。
・自分が両足を失うような大けがをした。
・子どもが原因不明の病気で寝たきりになってしまい、介護が必要になってしまった。今の仕事を続けられるかも分からない。
・気づいたら妻が新興宗教にハマっていて、貯金全額を持ち出した上、借金まで作っていた。
・・・
どんな強者でも、もしかしたら、明日、自分が弱者側になるかもしれません。
そのような時に、弱者を支援してくれる仕組みや制度があったら、どれだけありがたいでしょうか。
人生では、誰もが「自分が弱者側になる」というリスクが常にあります。
そのような時の為にも、弱者を救うルールや制度があった方が、自分の未来にとっても安心ができるのです。
まとめ:社会的弱者は社会で支援しよう
以上、今回は「社会的弱者を救うべき理由」を、「困っている人を助けてあげたい」という感情論ではなく、あえて「合理的な理由」でまとめてみました。
私は「社会的弱者は社会で支援する」方が、社会全体にとって、安全で安心な社会生活が送れると考えています。
あなたは社会的弱者に対して、どのような考えをもっていますか?